2021年 3月の法話

『感謝の心』

3月のお彼岸が本日で最後となりました。寺の本堂へは、コロナの関係で皆さんあまりお見えにならないのですが、お墓へは随分お参りに来てもらいました。
桜もぼちぼち咲き始めたかなというところでございます。

最近よくテレビ・ニュース等で亡くなられた方の最後の有り様として、直葬(ちょくそう)にてご遺体をそのまま何もせず火葬場へお運びし、お骨にされた後、散骨等いろいろな形で行う話を聞きます。お墓参りの方々を見ながらふと思ったのですが、やはりそのようなやり方はちょっと寂しいかなと思いました。
お葬式もせず散骨や樹木葬等いろいろな形がありますが、こうしてしまうと家の中で手を合わせるという場所が無くなってしまいます。例えば、お仏壇があればお仏壇の前で手を合わすことが我々はできます。ところが家の中からお仏壇が無くなってしまうと、手を合わす機会が無くなってしまいます。
我々が手を合わすということは様々な意味がございます。特に仏様の考えでは、感謝するという気持ちがあります。もちろん自分が無事に暮らしている・生きていることへの感謝もあれば、神仏に対する感謝、あるいは自然に対する感謝。様々な感謝の念を表す形が手を合わすということではないかと思います。そうしますと、家庭の中で手を合わす機会が無い環境で子どもたちが育っていくということはどのようなものだろうか、やはり手を合わす機会はあった方が良いのではないかと思います。

我々は神社仏閣へお参りに行きますと手を合わせます。大体、お参りをした際に手を合わすということは感謝の念で手を合わすこともありますが、どちらかと言うと神仏の御加護、あるいはご利益をお願いして手を合わすことが多いのではないかと思います。我々は自分のために色々なことを欲しがるのはもちろん良いのですが、それと同時に、自分が今こうやっていられることに対する感謝の気持ちがありませんと、やはり一方通行になってしまうのではないかと思います。give and take(ギブアンドテイク)という言葉がありますが、テイク・欲しい欲しいばかりでは割りが悪いわけで、やはり一方ではギブ・我々から感謝の気持ちを伝える心も大切なのではないかなと思います。
そのようなことをお彼岸のお参りの方々を見ながら感じました。やはり日本の昔からの習慣である、あるいは伝統であるお墓参り、あるいは家庭内での供養等こういったものがあるからこそ、日本の心というものが続いていくのではないかと強く感じた次第でございます。

ようやくこれから春本番となりまして非常に過ごしやすい季節になりますが、一日も早くコロナ感染が終息してくれるよう、さらに祈って参りたいと思います。

以上を持ちまして、3月の月例祭の法要を終わりにさせていただきます。