2018年 11月の法話
『仏の境地』
数日前の朝9時過ぎに坊さんの格好で東京の地下鉄に乗りました。混んでいて立っていたのですが、前に座っていた女性が席を譲ってくれました。私も席を譲られる歳にみられるようになったのだなぁと思いながら家に帰りました。その話を家内にしたところ、「あなたお坊さんの格好をしてたからじゃないの?」と言われ、あぁそうなのかと思いつきました。
よく内面が表に滲み出ると言いますが、やはり我々は人の外見で判断してしまいます。ですから、第一印象の見た目も大事です。
先月は法華経のお経の中に出てくるとたとえ話と仏様の方便についてお話ししました。
本日は2つ目のたとえ話です。
インドのあるお金持ちのことです。そこの屋敷はとても広く、使用人もたくさんいたのですが、火事になってしまいました。屋敷の中には孫が3人おり、遊びに夢中になっていて火事に気づいていませんでした。お金持ちの人は屋敷の中にいる孫たちに大声で知らせますが、孫はそれにも気づきませんでした。なんとか助けたいと考えていた時、孫が欲しがっていた乗り物を思い出し、
「外に出てきたら欲しがっていた乗り物を買ってあげるぞ」
と呼びかけました。すると孫はすぐに家から出てきて助かりました。孫は買ってくれると言われた乗り物をせがみました。なので欲しがっていたものよりさらに高級な乗り物を孫に与えました。
というたとえ話です。
このお話しのポイントは、人はそれぞれ自分の望むものが違います。ですが、仏はその違いのはるか上をいく絶対的な我々の欲しいものがあるというのを教えています。これを譬喩品(ひゆほん)の教えと言います。では、絶対的なものとはなんでしょう。よく昔の人は不老長寿を願いました。ですが、今は不老長寿はありえないと知っています。では、なにが絶対かといいますと、仏さまの境地になれば悩みや苦しみ、欲求が一切なくなります。仏の境地は一般的に悟りで、けれどもこのたとえ話にあるように、子供が欲しいと言ったものよりはるかに高級なものを用意してあげれるかというと難しいです。しかし、実は仏さまは我々に出してくれています。ですが我々はそれに気がついていないのです。それに気づくまでには至ってないのです。
見た目の話から通じているのですが、本来の大いなる絶対的な仏の智慧(ちえ)は見て分かるものではありません。感じるものなのです。ではどうやって感じるかといいますと、一つはひたすら精進することです。もう一つは仏様を拝み、仏さまの気持ちを感じる道になります。
以上で11月の月例祭の法要を終わりにさせていただきます。