2019年 8月の法話

『目で見えないこと』

仏教の源流をたどっていくと、仏様には最初お姿がありませんでした。
それが、お釈迦様が亡くなって時間が経つ内にまず仏様の足が現れました。それからさらに時間が経ち、仏像というお姿が私たちの目に見えるようになりました。
本来仏様は私たちの目で見て確かめられるものではありません。では、なぜ仏様の姿になったかといいますと、私たちは目で見て確かめられるものでないと信じることができないからです。
本日お唱えしたお経は、寿量品(じゅりょうほん)といいます。このお経の始まりには「自我得仏来」とあります。意味は、実は私はずっと前から仏としておりましたが、私の存在を信じてもらえないので姿を見せ、死んだ姿も見せることにしました。という意味です。
私たちは目に頼って物事を判断してしまいがちですが、世の中自分の目で確かめられる物事ばかりではありません。人の気持ちを目で見て確かめることはできませんよね。けれど、目には見えないけど人の気持ちを感じることはできます。
観音様と仏様と自分の気持ちが伝えられることができれば観音様の気持ちが分かります。毎月皆様が観音様に手を合わせてお経をお唱えしているのは、皆様と観音様の間が少しずつ繋がっている証拠なのです。ただ私たちの方が観音様に比べて気づくのが遅いので、観音様の気持ちがまだよく分からないと思います。ですが、観音様は私たちの気持ちを十分に分かってくれています。
このまま日々観音様に手を合わせてくことによって、きっと観音様の気持ちが分かるようになると思います。
以上で8月の月例祭の法要を終わりにさせていただきます。