2024年 8月の法話
『死と科学について』毎年私共もお盆を迎えているのですが、この時期に特に感じますのはどうも亡くなられた方、人の死というものが段々と薄められてきている、その重さが年々無くなってきているような気がします。特にテレビなどで紛争などの状況を見ているとなかなか我が事のように感じられず、まるで映画を見ているような気持ちになってしまいます。
しかし当事者たちにとっては大変なことですね。やはり我々も自分の身近な人が亡くなりますと心穏やかというわけにはいきません。いろんな思いが湧き起こってまいります。一方で科学の力の解明によって、人の死というものがあたかも物質が無くなるようなものとして考えられているような気がします。亡くなられた後、火葬をして骨と灰だけというかたちに受け止められてしまいます。 そしてまた我々一人一人の心の中で、あの人は死んだのかで終わってしまうような気がします。どうも人の死というものが近代から現代にいたりどんどん価値を失うような、そんな時代になってきている中で、どうしたらもっと人の死というものを大事に真剣に考える方法はないだろうかと私も一生懸命考えている最中でございます。
今年も私のお寺では亡くなられた方が約30人いらっしゃいます。その30人は当然ですが全て違う人です。年も違えば性別も違う。生活も皆んな違う。そしてお葬式の時もそれぞれの思い、悲しみがあって全てのお葬式も一つというわけではありません。我々の身近ではそういう風になっているのですが、テレビを通して見るとそういった風にはならない。
このギャップをどうやって埋めていけばいいのか、そして本当に人の死というものが我々に直接考える、感じられるそういうものができるようになれば地球の果てでいろんなことがあっても人ごととは思えない、自分のことのように思える。そうなれば今のいろんな紛争や戦争など、さあ皆んなで何とかできないものだろうかという気持ちになっていけるのではないかなと思っています。 これから私一人が考えてどうなることでもないのですが、我々は科学の進歩・発展が一方では人間の死を破壊していったのではないかなと思います。何を破壊していったのかというと、肉体ではなく心の部分ですね。これは科学によって少し壊されてしまっているのではないかなと思います。その科学に対する我々の考え方も考え直した方がいいのかなと思います。
例えばよく言われることですが、今の日本の長寿社会で長生きをすることが本当に一番の幸せなのかどうか。それは元気でどこも悪くなくて100歳まで生きることができれば素晴らしい。しかし病気になったり怪我をしたりといろんなことがございます。そういった中で100歳まで生きることが本当に幸せに繋がるのか、繋がればいいのですが、そういう意味もありまして我々も科学的に物事を考えるという方法を少し見直していく必要があるかなと思います。
以上を持ちまして、8月の法要を終わりにさせていただきます。