『楽しい事は1人より皆と一緒に』
今日お唱えしたお経についてですが、始まる時と終わる時の2回伽陀(かだ)というメロディーのあるものお唱えしました。その1ページ目に載っているのが衆罪伽陀(しゅざいかだ)と申します。
これをなぜ最初にお唱えするかと言いますと、我々人間は罪や汚れを持って実は生活しております。そうした罪汚れも心から六根を懺悔(さんげ)するとことごとく消えていきますと書いてあります。ここで問題になるのは六根です。先ほどお唱えした般若心経の中に
眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)(目、耳、鼻、口、体、心を指す)というのが出てきますが、これが六根です。我々の罪や汚れはこの六根から全て生まれてきていると言われております。
我々は人と相対した時に、目つきで相手を判断します。そのように目に我々の心は投影され、目つきによって時には相手を脅したり、涙を誘ったりと色々な影響を及ぼします。
これはその人が作り出す感情行為の一つなのですが、諸々の罪の一つにも入るわけです。そのように鼻も耳も口も全てそういう所から罪汚れを作り出しております。
それをまずお経を読む前に反省しましょうというのが、『衆罪伽陀(しゅざいかだ)』です。そして、これを読んだ後に今日の春の大祭の趣旨を敬老観音様にお伝え申し上げます。その後終わりに読むのが回向伽陀(えこうかだ)と申します。
これも字の如く、この功徳を持って全て平等に施しをし、悟りの心を起こす事によって安楽の国に参りましょうという最後の句に繋がっていきます。
ここで平等という字が出てきます。皆さん外をご覧ください。今太陽の光が燦々と降り注いでおります。これは大きな木にも小さな雑草にも全てに平等に降り注いでおります。これと同様に仏様の慈悲の力も我々全ての者に平等に行き渡っております。
そこに我々は気がついて、これから皆と仲良く安楽の国へ参りましょうと決意をしていく事が最後の言葉になります。ここで大切なのは、皆と仲良くという部分です。仏教の中に自分1人がいい思いをしても結果的には本当に心の底から楽しい事には繋がりません。という教えがあります。
いくら自分がいい思いをしても、まわりに1人でも反対の気持ちを持った人がいたら自分は楽しくなれるでしょうか。恐らくなれないと思います。皆と等しく同じ心を持って向かって行く。その向かっていく先は仏様の世界であります。
最後になりますが、お坊さんは長生きなんです。今度群馬の方でお寺さんの会合があるのですが、そこには、100歳の方がお一人、90歳以上の方だけでも10人ほどお集りになります。
皆さん代こそ息子さんに譲っておりますが、何故こんなお元気な方が多いかと考えますと、結論としてお経を読んでいるから。これにつきると思います。
長生きされている方は一所懸命お経を読んでおられます。敬老観音様でも、月例際で皆さんと一緒にお経をお唱えしておりますので、是非皆さんもこれを機にお経を読む習慣をつけてみて下さい。長生きしたいからお経を読むのではなくて、お経を一生懸命読むから長生きが出来る。これの順序は間違えないでくださいね(笑)。
今日は五月晴れの素晴らしいお天気の元で、敬老観音様の春の大法要が無事行えた事にお喜びを申し上げまして、今日の法要を終わりにさせて頂きます。
どうもありがとうございました。