2023年 3月の法話

『中道』

ようやく寒くなくなりお彼岸も終わる頃、あいにくのお天気ではございますが昨日皆様はWBC(野球)を見られたでしょうか。感動されたと思うのですが、どうしてあのような筋書きができるのでしょうね。全く不思議です。

我々が感動するというのはやっぱり気持ちが若い、元気に成るもとです。感動を日々持つことができれば毎日元気で過ごせるのではないかなと思うのですが、実際はそうはいきません。
しかしながら小さなところで感動はあるものです。ちょうど今は花の時期で桜が咲いていますが、道端に名もない花が咲いているのを見た時、生きているのだな・咲いているのだなと感動したりします。それから食事をしているときにやけにご飯が美味しいなと思うこともあります。そういった小さな感動が結構あるのですね。その感動をいかに持続させていけるかということが大事なことではないのかなと思います。

仏様の世界でもやはり感動は大事になってきます。言い方を変えますと喜びを持って生きることに、また一つ仏様の教えがあります。
よく悟るという表現を使います。その悟りを開くという心の状態はどんなものかと言いますと、正に我々が感動した!良かった!と思う一瞬の気持ちが、悟りの気持ちと重なっているところがあるのだそうです。ですから、昨日の野球を観て感動をした瞬間、我々の頭の中は悟りの状態になっています。
しかし、1日24時間全て感動しっぱなしというわけにはいきません。感動があって、感動が無くて、その行ったり来たりを繰り返していく事が我々の人間の生き方ではないかなと思います。

右と左があって、右ばっかり行っては駄目。左ばっかり行っては駄目。右へ行ったり左へ行ったりしながら、次第に段々と真ん中に寄ってくる。最後は真ん中1本の線になるという考え方が、仏教で言う中道(真ん中の道)に繋がってきます。

お彼岸のお中日は昼の長さと夜の長さが全く同じです。従いまして、お彼岸に我々は何故お墓参りをするのかと言うと、やはり仏様の教えである中道を偲ぶためだと思います。そしてその中道は、我々が感動を行ったり来たりしている間に真ん中に寄っていきますという教えがあるのだということをお話しさせて頂きました。

以上を持ちまして、3月の法要を終わりにさせていただきます。