2022年 秋の大祭の法話

『観想』

今日は足元の悪い中、観音様にお集まり頂きまして誠に有り難いことでございます。雨に濡れた観音様は色鮮やかにして喜んでおられるのではないかと思います。

ちょうど今日はお彼岸の中のお中日ということになりました。お彼岸の話をさせて頂きますとお中日というのはお彼岸の真ん中の日。さらに言うとちょうど太陽が東の正面から西の正面に沈む日でございます。従いまして日本では昔からお彼岸のお中日に太陽が西に沈むのを見ながら極楽のお浄土に向かってお祈りをしてきました。それがいつしか阿弥陀如来様を拝むのが段々とご先祖様を拝むと言う風に広がってきまして、今日ではお彼岸はご先祖様のお墓参りが中心となっております。ただ昔から日本ではお中日の太陽が沈む方向に向かって極楽の世界というのをイメージする、極楽の世界を偲ぶというやり方が行われてきました。そのやり方というのが観想(かんそう)と言います。太陽が真西に沈むのを思いながらあの向こうに素晴らしい極楽のお浄土があると言うことを自分の中にイメージしていくわけです。これを昔からやってきたのですが、その観想について今日はお話をさせて頂きます。

本日お唱えさせて頂いた中に「総礼伽陀(そうらいかだ)」というお経がございます。
総礼というのは礼拝の全てということになります。伽陀というのは音経。メロディのあるお経ということになりますので、本尊様を礼拝する全てを含めたお経になります。次のお経を読みますと「我此道場如帝珠(がしどうじょうにょたいしゅ)」とあります。

我は私・此(し)はこれ・道場はこの道場・如は如く・帝は帝釈天・珠は大きな玉。帝釈天の前玉の中に我身影現三寶前(がしんようげんさんぽうぜん)とあります。つまり私の体がその玉の中に入っていく。そうしますと目の前に仏様、本尊様の教え、また教えを実践する修行者といった仏法僧が玉の中に集まってくると。そこで私は跪いて両膝両肘おでこを床に付けてそして両手を持ち上げて、上げた手のひらの上に本尊様のおみ足を頂いて仏様に祈る。これを自分の頭の中で今自分が玉の中に入っていく、入って行ったらいろんな仏様や皆んながそこに入ってきた、そこで私は両手両肘おでこを床に付けて手のひらを上げてそこに本尊様を頂いて念じます。このお経を読みながらあるいは聞きながら自分の頭の中でイメージするのですね。このイメージをするということを観想と言います。
仏教の中ではこの観想が非常に大切です。ただお経を読むだけではなくお経を読みながらお経の描かれている世界を自分の頭の中想像して、仏様と私が一体になるのです。合体するということをイメージします。そうすると仏様と自分は一心一体になる、別の言い方をしますと即身成仏ということになるのですね。そういった観想をしながらお経を読むと良いのですが、中々そうは言うもののある程度慣れないとできません。しかし皆さんは毎月月例祭で観音経をお唱えしていますので、自然と観想が自分の中で培われていくと思います。そういう意味で我々はお経というとただの漢字の集まりということになるかもしれませんが、実はお経というのは素晴らしい力を持っている。我々を変える力を持っている。我々が気づかなくても我々が変えさせられていると言うことに繋がってきます。

今日はあいにくの雨で太陽を見ることができませんが、見えなくても我々は想像ができるわけです。目を瞑って海の東の方に太陽が昇りそのまま天を通って真西向かい沈んでいくところだ、そういったことがイメージできます。
そのイメージする力が観音様を身近にして頂ける方法なんだということをお話しさせて頂きまして、秋の大祭の法要を終わりにさせていただきます。