春の大祭の法話
日本人の根っこ--------------------------------------

本日は雨の中ご足労いただきありがとうございました。
足元は悪いのですが、仏様の世界では雨が降るというのは非常に縁起が良いとされております。
いつも月例祭でお唱えしているお経の中に『甘露の法雨』(かんろのほうう)という言葉がございまして、天からの雨は教えの雨となっておりますので、その教えの雨が降り注いでいる事は非常に喜ばしい事だと一つ受け止めていただきたいと思います。

話しは違うのですが、最近ご近所で一人暮らしの方が亡くなれました。
老衰だったようですが。
その後、身寄りの方がおられないので、役所の方が住んでいた物を処分するという事になったようです。
そこで、役所の方から私に『故人が持っていた仏壇やお位牌を処分したいのでお寺に持って行ってもいいですか』と連絡がありました。
承諾し、いざその持ってこられた物を見ると、仏壇やお位牌だけでなく故人の身の回りの物一切合切を持ってこられたのですね。
役所の方が言うには、故人が大切にしていた写真や絵などもあるので、ただゴミ袋に入れて捨てるのも忍びない、一度拝んでもらえないでしょうか。と言うわけです。

そういう事でしたらと、拝んでお経を上げさせていただいたのですが、ふとその時、こういった事が我々日本人の根っこの部分にあるんじゃないかなと思いました。

やっぱり我々は、長年大切に使ってきた物や拝んできた物は簡単に捨てる事が出来ません。
なぜなら、後で『バチでもあたったら困る』『変な事でもあったら困る』という気持ちがあるのですね。
ましてや、日本人は物を大切にしてきています。
例えば古くなった筆もただ捨てるのではなく、筆供養を行い、針も針供養を行います。
我々日本人は、長年使っていると物に対しても自分の気持ちが移るようですね。
ここが日本の仏教の大きな特徴になると思います。

因に、その他の宗教では、使えなくなったり古くなった物に対して供養をするという事はありません。

我々日本人は、自然の中でも木や岩などに対して神様が宿っているのではないかと特別な思いを持つ事がよくあります。
このように、日本人は身の回りに神様や仏様がおられるというのを心の底で感じているのですね。
この気持ちは普段は出てきませんが、いざ物を捨てるとなった時に心の奥底にあるこの気持ちが表れるわけですね。

宇宙に向かってロケットが飛び、科学や医学の発達した世の中でも、我々の気持ちというのはそんなに進歩はしないのですね。
その一つの例として、お嫁さんと姑さんとの仲が悪くなるという事が上げられると思います。

この間法要があった時の話をしますと、青年の僧が気を使って色々私の手伝いをしてくれようとするのですが、なかなか私が思うようには出来ないのですね。
かと言って、あれこれ注意をすると本人の気分を害してしまう事になりますし、その場はそっと黙って後からやり直そうと思いました。
しかし、やり直した事があとで分かってしまっても気分をそこねてしまう事になりますから、結局そのままにしようという事になります。
ここで感じたこのあたりの事は、家の中の嫁姑の擦り合いと同じようなものかなと思いました。

そういう意味では、時代がいくら進歩しても我々の本心の部分は簡単に進化していないのですね。

ですから、我々は自然の中で神様や仏様と共に生きているのだ、という事に目を向けて頂ければ、この自然と共に生きる、あるいは自然に素直に感謝が出来る生活を送れるのではないかなと思います。

本来なら晴天の中、汗をかきながらお経を唱えるところでありましたが、本日は『甘露の法雨』教えの雨が降る中で、また違った味わいの元に大祭が無事出来ました事を、厚く御礼申し上げまして大祭の法要とさせて頂きます。

ありがとうございました。