『本当は誰もが持つ、仏の心』
ついこの間まで寒かったのが、いつの間にか桜が満開になりました。季節は移ろいゆく。これは諸行無常という仏教の言葉で示されております。諸行無常は、花は咲き花は散る。人は生まれ人は死ぬ。形あるものは全て壊れてゆく。という考え方なのですが、実は一つを深く掘り下げていくと、諸法実相諸法無我(しょほうじっそうしょほうむが)という言葉がございます。諸法実相というのは、仏様の教えは全て我々の目に見えるものである。しかし諸法無我であって、全てのものは真実そのものという意味になります。
これは哲学的ですので全てを理解するのは難しいですが、それは花に例えると桜の花は咲いて散る。葉も葉桜となり、やがて紅葉して散る。全ては移ろい変わってゆくけれども、我々は桜を見て毎年同じように感動します。これは移ろいゆく事のない変わらないものになります。
ですから移ろい変わってゆくのは表面上の出来事でその根本では全く変わらないという事です。これを仏様に言い換えますと、我々はお釈迦様が生まれ亡くなったと考えているのですが、本来仏様は遥か昔から存在し、今も存在して不変をあらわしているわけです。
じゃあ何故お釈迦様は生まれ亡くなったかと言うと、これは我々に物事の道理を分かりやすく説明するための一つの手段としてそうなされました。
我々は人が生まれれば歓び、人が亡くなれば悲しみます。しかし、悲しみとか歓びを遥かに超えたところに、本来の心があります。これが仏様の心です。この仏様の心は人間なら誰もが持っているのですが、普段の1日の暮らしの中で、自分の中にある仏の心がなかなか表面に出てこなくて、泣いたり笑ったり怒ったりという日々を送っているわけです。でもこれはその人の表面上の事であって、本来我々の奥深いところには仏様の心が厳然としてある。そこに我々は気がつかないといけません。
それを気づかせるために、仏様は方便としてこの世に出現し、この世から消滅していきました。我々は仏様が生まれた事を歓び、亡くなった事を悲しみましたが、そういうところじゃなくてもっと根底にある気持ちに目を向けなければなりません。
例えば誰か目の前で苦しんでいる人がいれば、かわいそうだな、なんとかしてあげたいなという気持ちを誰しもが持つ。これが仏様の心に繋がる訳です。所謂『慈悲』の心です。我々の一生には限りがあるけれども、心の中というものは奥深いところでは変わりない。それが代々親から子、子から孫へと繋がってきています。そこに気づかせるために自然現象として仏様の一生というのがあるのですね。
今日は難しいお話をしてしまい申し訳ありません。でもたまにはこういうお話もよいかと思いまして。
今日は3月の月例祭でしたが、いよいよ春爛漫を迎えます。どんどん気持ちのよい季節になりましたので、皆様が健康で毎日を楽しくお過ごしされる事を願いまして本日の法要を終わりにさせて頂きます。