2024年 10月の法話
『仏様の世界』この間お彼岸が終わったばかりでございます。お彼岸というのは川の向こう、お浄土、悟りの世界・仏の世界ということになります。我々はそこを渡って彼岸にたどり着くわけですが、その時に自分一人の力で渡ることができる人と自分一人の力ではちょっと難しいな、なんとか皆で助け合って渡ることはできないかなと思う人と大きく分けて2つに分かれるわけです。
最初は何とか自分の力で渡ろうとしますが、時間が経つごとになかなか一人で渡るのは難しいぞということになります。そしてみんなで助け合って手を取り合って渡ろうと考え方が変わってきたわけです。今は両方の考えが同時にあります。
ただこの両方の考えがあるのですが、一番元となる考え方がその自分が渡っていく向こうの彼岸が自分にとって本当に素晴らしい世界なのだろうか、本当に行きたい世界なのだろうかと、それが今はっきり見えてこなくなっています。今我々は極端に言えば恵まれており、何不自由ない暮らしをしています。もちろん病気や災害の恐れもありますが、日々の生活ではなんとか無事に暮らしています。その無事に暮らしている世界よりもさらに素晴らしい世界が本当にあるのだろうか、それを自分の頭の中でなかなかイメージをすることが難しくなってきています。
しかし昔はすぐにイメージができたのです。もっと食べるものがいっぱいあったら幸せになったのに。もっとお金があったらこういうこともできたのに。日々の苦しみや悲しみの無い世界があったらなんとか行きたいものだと昔はイメージができました。今は満たされておりますので自分の中でイメージが出来づらくなっています。
したがって本当にその世界が自分の行きたい世界なのか、これをはっきり自分の中で確信とならないとなかなか向こうの世界へ行きたいという気になりません。その確信というのは、すなわち向こうの世界を本当にあるのだということを信じなければなりません。向こうの世界へ行ったらもう嫌なこと、悲しいこと苦しいことは一つもなく、安楽の世界なのだと信じることができるようになれば、行きたいという気持ちに変わります。
しかし今の現代人は上手くイメージができません。せめて自分の生命が終わった後は仏様の世界、極楽の浄土に行きたい、成仏しようと考えます。そうすると自分の生命が終わった後、目の前に広がる苦しみのない世界、安楽な極楽のような世界へどうやったら行けるのだろうかと最後の問題になります。どうやったら行けるか、ということを我々の先輩たちはずっと考えてきておりました。その一つ、代表的なものが実はお葬式なのです。お葬式をすると必ず仏の世界へ行けるのだと昔の人は考えました。ですから人が亡くなった後、必ずお葬式をすることになりました。ところが現代は家族が亡くなってもお葬式はせずに、そのままご遺体を火葬場で火葬をして、残ったお骨を散骨、あるいは樹木葬、あるいは永代供養などというかたちが今流行ってきております。
しかしお葬式をしていないという事は、昔の人の考えではあの世に行けないという考えになります。この世に亡くなった人の魂が残ってしまうのではないでしょうか。どういう姿かというと、いわゆる幽霊や怨霊や悪霊などそういうことになってくるのですね。これは大変なことです。今はあちこちのお寺で毎年、施餓鬼(せがき)という行事をやっております。この行事はお葬式や供養をやっていない方のために何とか仏様に救ってもらおう、そして皆でお金を出し合って何とか助けようとする供養の一つです。しかし今そのスピードが追いついていません。都会ではお葬式をせずにどんどん火葬をしてしまうケースが増えています。これは一度考え直さないとまずいなと強く感じています。
前回もお話ししましたが、紛争や戦争の犠牲者たちはお葬式を出してもらっているのだろうか、どんどんただ葬られているだけではないのだろうかと心配しています。やはり我々は人の死というものをお葬式という観点からも、もう一度見直していかなければなりません。そして人一人が死ぬということは、本当は大変なことだと考え直していかなければなりません。
やはりいつまで経っても戦争の犠牲者は救われないとなってしまうのではないかと痛切に考えております。我々本来は命が終わったら仏様の世界に行くのだということを真っすぐ見て進んでいけたらと思います。
以上を持ちまして、10月の法要を終わりにさせていただきます。