2016年 春の大祭の法話

『恵心僧都への感謝』

みなさんこんにちは。五月晴れと言ったらいいんでしょうか。真夏日になっております。私の衣も冬服で、首から下は汗びっしょりです。今日は春の大祭にお参り頂きまして誠にありがとうございます。

今日は特別に皆さんにお話をさせて頂きたいことがございます。
みなさんは、あまり有名ではないのですが「恵心僧都(えしんそうず)」という方をご存知でしょうか。歴史の中で有名なお坊さんと言えば弘法大師さん、それから親鸞上人さんや日蓮さんも有名です。そういう方々に比べますと、この恵心僧都という方はあまり有名ではありませんが、非常にこの方は我々にとって大恩のある方でございます。
恵心僧都さんは比叡山の恵心院(えしんいん)という所にずっといたので、恵心院の僧都(そうず)と言われているのです。僧都というのはお坊さんの位の名です。この方の本名は源信(げんしん)という名前です。この源信さんの生まれは奈良県當麻寺(たいまじ)の近く。幼い頃、川で石を一つ、二つ、三つと集めて遊んでいたのですね。そこにたまたま比叡山のお坊さんが通りかかり、子供が石を数えているのを聞いていて、その子供に「ぼく、一つ、二つって、みんな“つ”が付くけれども、なんで10番目にはつが付かないの?」と尋ねました。その子供が何と答えたのか。「だって五つでつを二つ言ってるからいいんだよ」と。これを聞いてお坊さん、これは素晴らしい子だと思い、家を教えてもらって訪ねました。お父さんは早く亡くなっていて母子家庭でしたが、そのお母さんに、「是非お宅の息子さんを比叡山で育てたい」と言ったのです。しかしお母さんは「うちの大事な一人息子、娘はいるけど男は一人だからやれない」と言いました。それでも「この子は特別な子だから、是非お願いします」と頼み、お母さんはほだされて手元を離しました。その後やっぱり見込まれただけあって、この源信さんは小さい時から一生懸命比叡山で修行をして学問をして、大きくなって名をあげました。今で言うと、研究論文発表みたいなものが都、宮中などである時に比叡山の代表で行くのですね。それで堂々と仏教のお話をすると、みなさんがこれはすばらしい、と褒められました。それである時、天皇からよく出来たということでご褒美に反物をもらい、源信さんは喜んで奈良のお母さんの元へその反物を送り届けました。さぞお母さんからお褒めの言葉をもらうと思って手紙の返事が来るのを待っていたのですが、なかなか来ない。どうしたのだろう、具合でも悪いのかなと心配していたら、ようやく手紙が届きました。その手紙にはこう書いてありました。「私は一人息子のお前を人前で偉くなるような者に育てたくて比叡山にやったのではない。お前は偉いお坊さんになる為に比叡山にやったのだ。だからこんな褒美をもらったくらいで有頂天になるようなお前は、まだまだ修行が足らん」と、そういう厳しい手紙だったのです。その手紙を見て源信さんも「はっ」と思い、それ以後、源信さんは勿論修行も学問もしますが、比叡山では一番奥の横川(よかわ)という一番人の来ない所へ隠居をします。そこで最後まで過ごします。ですから、恵心院にいた僧都ということで恵心院僧都と言われているのですね。
ちなみに僧都という位がどういった地位かというと、大中小でいうと真ん中です。今いる大僧正という位は、本当にその時代に何人出るか出ないか、そういうものです。普通は僧正(そうじょう)というのは一番偉いんです。僧正の下に僧都(そうず)、その下に律師(りっし)、大きく分けると三段階ございます。三段階の真ん中が僧都。だから恵心僧都と言われても、あんまり偉くないお坊さんかなと人は思ってしまうんですね。恵心僧都さん本名源信さんはその後、朝廷から「あなたは一生懸命学問して勉強して修行しているから、是非上の僧正の位をあげましょう」と言われても断って受けませんでした。死ぬまで僧都だったのです。
では、その恵心僧都の何が我々の大恩人なのでしょうか。それは、奈良時代に遡ります。奈良時代から平安時代に、仏教界で大きな論争がありました。この論争を簡単に説明しますと、一方では、修行をしなければ仏にはなれない、成仏はできませんよという考えがあった。一方では、誰でも仏様の種を持っているのだから、誰でも仏さんにはなれるのだと。この争いです。奈良仏教から平安仏教にかけて、しょっちゅう論争して、黒白がつかなかった。その黒白を付けたのが、源信さんです。これは何故か。源信さんは、「実は阿弥陀如来が我々を守ってくださっている。阿弥陀様は、四十八の願いを立てて、そしてどんな人間でも一度南無阿弥陀仏と念仏をおとなえすれば、誰でも救って下さいましょう」という今で言う阿弥陀思想、浄土思想を日本に定着させてくれたのが、源信さんなのですね。それ以後、そういう論争はもう打ち切りになりまして、従って今我々が誰でも、死ねば成仏できるのだと思えるようになりましたが、実は平安時代までは誰でも成仏出来るという訳にはいかなかったのです。
そりゃあそうですよね。今でこそ、思想、科学、文化がこんなに発展して、地球は丸い、月は上にある。ロケットが出来る。そういう時代ですよ。だけど平安朝のあの時代は地球が丸いなんで思った人は誰もいませんね。ましてやこんな自動車が走るなんて想像も出来ない。全く今とは別世界です。その別世界の中において、お釈迦様が亡くなった後、だんだんと仏様の教えがすたれて、そして最後は真っ暗闇の末法の世になった事にみんな苦しんだのです。その末法の世がいよいよ近づいてきたという所ですから、人々は「死んだらどうするんだ。」「みんな地獄へ落ちるのか。」「ああ怖い怖い」と恐れた訳ですね。そのみんなが恐れた時に、「大丈夫だよ、阿弥陀さんがいるのだから、阿弥陀さんに南無阿弥陀仏とお称えすれば、誰でも阿弥陀様は救ってくれるのだよ」と教えてくれたのです。ですからみんなわっと、阿弥陀さんの所へ行こうという事になりました。そしてこの源信さんの阿弥陀思想を引き継いで、それを日本中に広めていったのが法然上人(ほうねんしょうにん)さんであり、親鸞上人さんであります。
そして今日、恵心僧都、源信さんのお話をさせて頂いたのは、今日の大祭の本尊様、観音様ですね。この観音様は、阿弥陀様の両端におられます。観音菩薩、勢至菩薩と。そういう縁で今日は阿弥陀様の話から特に恵心僧都、源信さんの話をさせて頂きました。名前はあまり聞かれたことがないかもしれませんが、ひとつ、これを機会に我々日本人にとって恵心僧都さんとは大恩人であるという事を皆さんにお伝えさせて頂いて、今日の春の大祭の後の法話とさせていただきます。今日は暑い中どうもありがとうございました。