2026年 3月の法話

『鑑真和上と日本仏教のはじまり』

春のお彼岸ということで、毎日近所のお寺で法要が行われています。それに皆さん集まってお参りをされております。

今日はですね、鑑真和上(がんじんわじょう)という方のお話をさせていただきます。奈良時代に中国から渡ってきたお坊さんです。日本に来る途中で何度も難破し、その苦労の中で失明もしてしまいましたが、それでも「なんとしても日本に仏教を伝えたい」という思いで、弟子が反対する中、ついに日本に渡ることに成功して奈良に到着しました。

そして東大寺で、正式にお坊さんの戒律(僧は250、僧尼は500)を伝えるようになりました。それまで日本には、正式に戒律を授けることのできるお坊さんがいなかったのですが、鑑真さんが来られたことによって、それが整えられたのです。

奈良の東大寺、それから栃木の薬師寺、そして九州博多の観世音寺(かんぜおんじ)、この三つのお寺に戒壇というものを作りました。ここでないと正式に仏教の戒律を受けることができないわけです。

この三つの戒壇ができたことによって、正式に仏教の戒律を授かることができるようになりました。鑑真さんは、日本にとって仏教の上で本当に大きな恩のある方なのです。

ところがですね、最後は鑑真さんは、時の政府や仏教界からあまりよく思われなくなり、晩年は不遇であまり大事にされなかったとも言われています。

なぜかと言いますと、鑑真さんが最初に伝えた戒律、これはお坊さんになるための戒律で、もちろん結婚してはいけないなど、厳しい戒律でした。ところがそれとは別に、もう一つの戒律を実は日本にもたらしていたとも言われています。

そのもう一つの戒律というのは、十の重い戒律と四十八の軽い戒律、合わせて五十八の戒律でした。この教えを鑑真さんが広まると、日本中からたくさんのお弟子さんが広めるようになりました。その中で興味を持ったお坊さんがいました。
それが最澄(さいちょう)さん、比叡山を開かれたお坊さんです。

このお坊さんがその新しい戒律に興味を持って、日本では古い戒律は古い戒律として残しながらも、新しい戒律を広めたらどうだろうかと考えました。そして比叡山に新しい戒律を授ける戒壇を作らせてほしいと願い出ました。

お願いした相手は桓武天皇でした。その桓武天皇が「よろしい」と許可を出しました。 しかし、もともと奈良のお寺は古い戒律を守っていましたから、「新しい戒律は認めない」として、ずいぶん論争があったそうです。

それでも桓武天皇の許可が出たことで、比叡山では新しい戒律による修行が行われるようになりました。その後、比叡山には多くの僧侶が集まり、その中には日蓮親鸞、法然、道元、栄西禅師聖人などもいらっしゃいました。

そういう方々がそれぞれの信仰を求めて修行を重ねていく中で、やがて比叡山の考え方も広く理解されるようになっていきました。また、この新しい戒律の影響を受けた人の中には、嵯峨天皇もいたと言われています。

この戒律には「人を殺してはならない」という教えがあります。その影響もあり、平安時代では一時期、死刑を行わない時代がありました。その期間はおよそ八十六年間続いたと言われています。

その後、源平の争いの時代になり、平将門などの武将が出てくるようになると、再び死刑が行われるようになりましたが、それまでの間、日本には死刑がなかった時代があったのです。
そのもとになったのが、鑑真和上の仏教の教えであったということを、覚えておいていただければと思います。

以上を持ちまして、3月の法要を終わりにさせていただきます。