2026年 10月の法話

『宗教心と感謝の心』

だいぶ涼しくなってまいりました。これからいよいよ秋本番になります。観音様も、あと11月、12月と、残すところ2回ということになります。

先月は、ちょうど観音様の大祭でございました。大祭の際に配りました機関紙で、あるお話をさせていただきました。一般の人々から宗教心というものが薄れてきているのではないかな、と感じていたので、記事に載せさせていただいたのです。

その話の続きなのですが、どうも「宗教心」ということを口にすると、何かそういうことを口にするのは迷信であったり、凝り固まった考えであったりと、そういうふうに見られるのではないかと心配される方もいるんですね。それとは逆に、「自分は無宗教だ」という人もいます。

確かに、今の学校の義務教育においては、宗教を語る機会はほとんどありません。ですから、例えば、人が死ぬ、亡くなるということがどういうことなのか、学校では科学的に説明します。

だけども、人が亡くなり、また家族や親兄弟が亡くなる。そんなときの悲しみやつらさ、虚しさなど、そういう気持ちをどうしたら癒やすことができるのか。そういうことは、学校では教えてくれません。

今は科学や医学などがどんどん進歩しています。人間や細胞についても、さまざまな研究が進んでいます。だけども、私たち人間の心や気持ちに対するケアは、昔からそれほど進んでいないのではないでしょうか。

なぜかと考えますと、そこにはやはり宗教心というものが関係しているのだと思います。宗教心には、人間の気持ちを癒やしたり、慰めたり、勇気を与えたりする力があるんですね。

いくら人間が月に行っても、悲しみはどうにもなりません。ですから、本当に私たちの心を慰め、癒やしてくれるものには、宗教心が深く関わっているのです。

ですが、最初の話に戻りますが、宗教心を口にすると、まるで迷信を信じているかのように受け取られてしまう。堂々と「私は宗教心を持っていますよ」と言うこと自体が恥ずかしい。そんな時代になってきています。

よく考えてみれば、日本の宗教といえば仏教ですが、東西を問わず、宗教というものは、もともと感謝を表す気持ちにつながっているのではないでしょうか。

その感謝を表す対象を、神や仏だけに限ってしまうと、また迷信などと言われてしまうかもしれません。しかし、私たちを産んでくれた親、この親に感謝するということは、当たり前のことではないでしょうか。

自分が育ててもらったのだから、今度は同じように育てていく。これが人類として当たり前のことなのではないかと思います。

よくテレビなどで、子どもたちに迷惑をかけないために親が生命保険に入っておくよう勧めるCMを見かけます。しかし、本当は私たちは、誰にも迷惑をかけずに生きていくことも、誰の世話にもならずに人生を終えることもできません。

どこかで、誰かの手を借りているのです。人の手を借りていることを考えずに生きていこうとするのは、自分だけの気持ちなのかもしれません。

そうすると、逆に感謝の気持ちが薄れていく。つまり、感謝の気持ちが薄れることと、宗教心が薄れていくことは、つながっているのではないかと思います。

今回は、機関紙の記事の内容を少し補足してお話しさせていただきました。

以上をもちまして、10月の法話を終わらせていただきます。

ありがとうございました。